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とある大学生の備忘録

理系大学生が思うことをぼちぼちと。SNSとかWebマーケティングが好き。

中立性とはなんだろうか?

中立的(あるいは客観的)に検討すべきだ。
 
先入観を排除して議論すべきだ。
 
ある議論において、AとBという対立する意見のいずれを採択するかが争われた場合、

自分とは異なる意見にたどり着いた論敵に対して、

しばしば人はこのように言います。

 


私も、近時、自分の意見を表明すべき機会に恵まれ、同時に上のような発言を受ける機会にも恵まれているのですが、

 

しかしその度に思うのです。

 


「中立性なんてないでしょ……」と。

 


これを書くきっかけが何であるかは措いておくとして、

とりあえず書き残しておきたいと思います。

 

いろいろと考えようはあるかもしれませんが、

 

一学生の落書きとしてご査収ください。
 

 

目次

 

 

 1.中立とは

「ちゅう-りつ【中立】:①対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。……」
デジタル大辞泉によれば、中立とはこのような意味の語のようです。すなわち、中立性とは不偏性と言い換えることができます。また、一般的な意味での「客観性」と読み替えてもらっても支障はないでしょう。
 
 

2. 議論における中立性

先ほどの設例のような議論を念頭に置けば、このような議論における中立性とは、

①検討結果の中立性

②検討態度の中立性

③検討地盤の中立性

に分けられるでしょう。

この3つの中立性につき、順次検討していこうと思います。
 
①検討結果の中立性について
検討結果としてAとBのいずれかに与することを表明すれば、その時点でもはや中立性は失われます。

 

仮に中立性が保たれるとすれば、AとBのいずれとも異なる意見Cを表明するか、そもそもいかなる意見をも表明しないか、そのいずれかしかありません。

 

しかし、前者は、AとBのいずれかの意見を表明している論敵に対して「中立的に検討すべき」というときの「中立」の意味とは異なるうえ、議論の主題が「AとBとCのいずれの意見を採択するか」に変更された時点でCもまた一つの「特定の意見」になるのですから、中立性は存在していません。


そして、後者は、これこそ真の意味で中立であるということができますが、このような立場は議論の意義自体を根底から覆すものであって到底受け入れられるものではないし、そのような指摘もまたナンセンスでしかありません。

 
②検討態度の中立性について
もっとも、冒頭のような発言において「検討結果の中立性」は求められていないかもしれません。このときに求められる中立性とは、おそらくこの「検討態度の中立性」でしょう。


しかし、検討態度というのは内面の情況であり、その中立性・不偏性の有無はどのようにして外部から判断できるのでしょうか。論理演繹における不偏性は、一義的に定まる判断基準(論理法則)が存在するため、外部から判断可能だといえます。


しかし、検討資料の収集における不偏性や、検討資料の解釈における不偏性となると、にわかに雲行きが怪しくなってきます。


検討資料の収集については、Aの援用する資料とBの援用する資料をすべて集めることなどによって、まだなんとか確保することができるとしても、その資料の解釈において不偏性を求めることはやはり不可能なのではないでしょうか。

 

なぜならば、資料の解釈は一つの「特定の意見」となるからです。すなわち、解釈者がある一点の地点に立ってしかモノを見ることができない存在である以上、モノを見るときには必然的にこのような存在であることによる制約に拘束されざるを得ないのです(いわゆる存在被拘束性)。

 

簡単に言えば、その人の価値観やその時の感情などの影響を多分に受けた解釈しか生まれ得ないし、それゆえ資料解釈の過程も結果もおよそ不偏ではありえない、ということです。

 

もっとも、全ての資料の解釈について議場においてコンセンサスがとれていると仮定すれば、その限りで不偏であるということはできるかもしれません。

 

しかし、そのような仮定のもとでは、それらの一致した各資料の解釈をつなぐ論理法則がやはり共通のものである以上、検討結果が異なることはないはずです。事実としてAとBが対立する議論状況が生まれていることから、ここに矛盾が生じていることがわかります。そしてこのような矛盾は、この仮定がそもそも成り立ち得ないことを示しているのです。
 
③検討地盤の中立性について
先入観を排除すべしとの指摘は、まさにこの「検討地盤の中立性」を確保すべきことをいうものでしょう。たしかに、一切の先入観を排除して無の状態から検討を始めること、これは中立であるといえるかもしれません。

しかし、真に無の状態から検討を始めることは不可能です。先入観の存在を自覚したうえでそれを相対化することは可能ですが、そのためにあらゆる思想・価値観をとりいれても、偏りが希釈されるだけで、真に無の状態になるわけではありません。これは、絵の具の極彩色をすべて混ぜたとしても、黒に限りなく近づくだけで、黒そのものにはならないのと同じことです。


というよりむしろ、そもそも検討地盤における中立性にどれだけの意味があるのでしょうか。検討態度が中立でなければ、検討地盤がいかに中立であっても、検討態度の非中立性によってその中立性は打ち消されてしまい、意味をなしません。しかし、先ほど述べたように検討態度の中立性というのはあり得ないのです。
 
 

3. 簡単に言うと……

議論における中立性というとき、主に想定され重視されているのは「検討態度の中立性」でしょう。しかし、そのようなものはあり得ません。それがあり得るとしたら、結論は一つに収斂しているはずであって、意見が対立するというような議論状況は生まれないはずだからです。
 

 

4. 何が言いたいのか

議論においては、中立性・客観性といったものは存在しえないのであり、それを絶対視することによってよい結論が得られるものではありません。このような場面においては、中立性・客観性という言葉はもはや真の意味において使われているのではなく、もっともらしく批判するためのまやかしとして使われているにすぎません。
 
そして私はここから進んで次のように考えています:

①主張や見解が一定の価値観から独立しては存在しえないことを自覚する必要がある。

②そのうえで、議論に際しては、議場全体がいかなる価値観を採用すべきかを明らかにしておく必要がある。

すなわち、ある組織の意思決定にかかる議論においては、議場全体が採用すべき価値観とは、まさにその組織のあるべき姿・存在目的・理念・方向性などである。

③もっとも、このような努力をしてもなお、議場を構成するメンバーそれぞれの価値観からは究極的には逃れることができない。

しかしながら、このような努力によってこそ、「議場全体で採用すべき価値観からどの程度乖離しているか」という判断基準を得ることができる。

④もとより、対立する主張や見解を批判する場合には、それが結びついているところの価値観が単に自分の価値観と衝突することのみをもって批判するべきではない。なぜならそれは水掛け論に陥るのみだからである。

しかし、議場全体で採用すべき価値観から大きく乖離しているという理由で批判するならば、たとえその主張がやはりそれぞれの価値観の枠内にとどまるものだとしても、二項対立が一つへ収束していく方向性が少なくとも生まれることになる。

⑤そして、同時に、対立する立場を説得すること、すなわち、自分の主張やそれによって導かれる帰結が、対立する立場に結びついた価値観においても十分に理解しうることを示す努力が必要である。そのプロセスによってこそ、自分の主張がより説得力を増し、議論も熟していくのである。
 
中立などあり得ないと自覚したうえで、なお議論結果が奉仕するところの存在にとって妥当な結論とは何かを模索していくことでしか、よい議論は生まれないのではないでしょうか。