とある大学生の備忘録

理系大学生が思うことをぼちぼちと。SNSとかWebマーケティングが好き。

抽象論って不要なんですか?


近頃は諸事忙しく


従前に比べればめっきりSNSというものから

遠ざかってしまったものの


かえって精神的には安定した状態に落ち着く…

 

 

使用できる言語を制限せずとも


ただ思考過程を表明する手段を奪うだけで


ヒトは思考しなくなっていくのかもしれない


と思っている日々でありました。

 

 

しかし、寝付けぬほど時の流れの遅さを嘆くときもなく、


夜中に何をしているのだろうなどと思いつつも、

 

とりとめのないことが思い浮かんでは消えていくもので、


生存報告も兼ねて久々にここに


何か書き残していこうかという気持ちになる。

 

まさに徒然草序の段そのものというところでしょうか。

 

「諸事」に一区切りがつき、

試験勉強という峠を越える前の一休みをしたくなったから、

という理由も後付けしておきましょう。

 


さて、前置きが長くなるのは私の悪い癖ですが、本題に入ります。

 

よく、会議等において

「理念」とか「あるべき姿」のような

主題に関する議論が白熱すると、

「地に足がついた現実的な議論をすべきだ」であるとか

「議論が進まない」との批判が飛んでくることがあります。

 

この発言は、抽象論に没頭することは
議論の道筋から逸れるものであって
避けるべきであるとの価値判断に基づくものです。

 

 

しかし、本当にそうでしょうか。


私自身がそういう大上段に構えた議論に走りがちであるという
ところを差し引いたとしても、

「抽象論」(価値中立的な意味でのそれ)に拘ることは
議論の道筋を定めるうえで避けては通れない関門ではないかと思うのです。

 


議論をどの道筋で進めていくべきかは、
その議論の結果によって行く先を左右される組織の方向性に規定されるものであって、
さらにその組織の方向性は「抽象論」の産物として定まるものであるからです。

 

定められた理念や形式から演繹的に
各論的議論を片付けていくという手法が妥当でないことは当然ですが、

そうであるとしても、
「抽象論」を避けて各論的議論の解決から着手すれば、
思わぬところで不整合が生じるものです。

 

仮に何らの不整合も生じなかったとしても、
それは単なる偶然の話にすぎません。


個々の論点の解決に専心し、
組織の方向性についてはそれが問題になるときにのみ
ad hocに操作していく、

という手法にはいずれ限界が来ると思っていますし、

いざ物事を出発させるべく車輪を動かそうとするときには、
個々の議題よりも優先すべきとは言いませんが、

 

少なくとも個々の議題と同じだけの時間をかけて

「抽象論」に取り組むべきであるような気がしてなりません。


――ここに来て、えらく長々と書いてきたものが
まさに壮大な抽象論であることに気づきました。

これは何ら現実的・生産的なものではありません。
とすれば、抽象論の必要性を語る行為自体が
抽象論の必要性の無さを如実に示してしまった、
ということになるのかもしれません。


皆さんはどうお考えになるのでしょうか。

 

P.S.

最近はショパンノクターンをかけながら作業することが多くなりました。

クラシックが昔から好きであったというわりには、

ショパンはあまり聴いてこなかったため、新鮮な気持ちです。

 

個人的にはOp.62-2が好きです。

たしかに、旋律としてはOp.48-2の愁いを大いに含んだ
Andantinoがショパンのすべてのノクターンの中では
最も美しく感じられるのですが、

Op.62-2の、自然な息遣いのようにゆったりとした流麗なLentoと、
息をつく暇もないかのように激しいながらも

フレーズの長いAgitatoとの対比のもつ魅力には勝てません(あくまで個人的には)。


旋律を耳にして「ああこういう心境になったことがある」と感じるのは、
自分の呼吸が旋律の呼吸に同調する感覚を抱くからなのかもしれません。

それもOp.62-2の魅力なのでしょう。